絶対シネマ(映画)感!

TV映画製作者のマスコミ試写レビュー ★キヨフィル★ シネマの虎

男女が出会って・つきあって・夫婦になるとはどういうことか

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マリオン・コティヤールという魅惑のフランス人女優と

ブラッド・ピットの主演映画「マリアンヌ」である。

監督は「フォレスト・ガンプ/一期一会」で

米・アカデミー賞ゴールデン・グローブ賞、全米監督協会監督賞の

ロバート・ゼメキス

 

ファースト・シークエンスは、スパイ映画のように幕開けする。

全編に渡ってメロウな恋愛映画なのではないかと身構えると、

スリリングなオープニングで、その世界に引き込まれる。

このファーストシーンの緊張感は、作品全体の良さをすぐに教えてくれるだろう。

だから絶対映画感覚で言えば、見ておいて間違いない。

 

とにかくこれは恋愛映画ではあるが、とてもハードだ。

映画の世界にいる間、「男女の出会い」とは、どういうことかを考えさせる。

主人公の二人は仕事で出会う。これは私たちの日常よく起こること。

最初から恋愛関係では始まらない。(ネタバレ無しに書くと・・・)

 

まず、仕事、任務で出会い、

仕事や役目の関係上、パートナー、タッグを組む。

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そのうち男女は何かしら心を惹かれ合う。

仕事や任務なので、それ以上は、止しておくか、踏みこえるか。

踏みこえると、恋愛関係で交際が始まり、やがて結婚・夫婦になり、

子供が誕生し、家族になる。

 

始まりは全くの他人同士。

男女が出会って、そのような特別な現象が起こる。

第二次大戦中のヨーロッパ、しかも英・仏・独という国をまたがって、

スパイ戦、駆け引き、騙し合いの中で展開する単なる恋愛感情を超えた

男と女の愛情をめぐるその真相は、凄まじく、

そんな相手を疑う心と、愛する感情の間で、

なぜか自分自身の身にもつまされるように感じることだろう。

 

生まれた場所や育った環境が違う、

そんな男と女が仕事の役目で出会って、

パートナーを組む・・・これは今、日本全国で起こっているが、

なかなか「つきあって・結婚して・家族になって」

そして、心からその家族を愛するという関係になるまでは

何かしら困難が立ちはだかる場合が多い。

 

こんな20世紀初頭の困難に比べれば、

いま我々の東京的・人間関係的な難しさなど

「大したことはない」と思うことだろう。

そして、関係を超えた男女の愛とは何かを深く思うことだろう。 

 

原題は「ALLIED」。意味は「同盟になる」。

その方が意味深いが、邦題「マリアンヌ」の方が雰囲気は合っている。

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2017年1月31日 東宝東和試写室 Preview

2月10日 全国ロードショー公開中(絶シネ度★★★★)

 

そう簡単に、歌って踊らない! 自然な流れとズラしが秀逸な「 LA LA LAND ラ・ラ・ランド」

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女は大作映画のオーディションを受けるが女優としては目が出ず、

撮影所の前にあるカフェで女給として働く。

男は自称ジャズ・ピアニストではあるが、

実際はレストランで客のリクエストでムード音楽を鳴らす名もないピアノ弾き。

男はそんな店もクビになる。

 

そんな売れない女優としがないミュージシャンは、

何度か顔をあわせるが、似たような境遇だからといって、

出会ってすぐ簡単に、恋に落ちることはない。

現実は映画のようにはいかないのだ。

この作品がいくら「映画」、しかも「ミュージカル映画」だといっても、

スクリーンの中で出会う男女が、そう簡単に恋に落ち、恋人同士になるわけはない。

そんなリアルが、この映画「 LA LA LANDラ・ラ・ランド」の良さの一つでもある。

 

しかしオープニングは、観客を作品世界にぐっと引き込む秀逸な幕開け。

1950年代、栄華を誇った時代のアメリカ西海岸。

流れるカメラワークで、カラフルな原色の車が渋滞するフリーウェイ。

突如、歌い出すアメリカの若者たち。なんだかこれが不自然ではない。

セリフのように様々な立場にあるアメリカ人を登場し、歌い・踊る。

まるで「当時のアメリカ人なら、こんな風に歌うように喋っていたんじゃないの?」

と感じさせられるくらい、なんだか流れるようなミュージカル映画の始まりである。

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それでも本編中は、そう簡単に「歌って踊らない」!

そんな、自然な流れとズラしが秀逸な「 LA LA LAND ラ・ラ・ランド」

監督は2014年、「セッション」でサンダンス映画祭グランプリ&観客賞、

米国アカデミー作品賞候補にもなった、デイミアン・チャゼル。その最新作。

 

主演は、ライアン・ゴズリング(「ドライブ」’11)と

    エマ・ストーン(「アメージング・スパイダーマン」、続編)。

「セッション」とはまったくテイストが違うが、そのチャゼルの新作とくれば、

僕のごとき「映画見」は是非とも見ておきたいところだ。

 

では、「絶対シネマ感覚」で言えばどうか?

絶対に映画館で見ておくべきか、そう慌てて見るほどではないか?

 

・・・といえば、とにかく映画館で見て、絶対に損はない。

「映画の演出・仕掛け・見せ方の現在」を押さえておく意味でも、

今、映画館で見ておくべき作品である。そして・・・

 

女優になりたい! ミュージシャンになりたかった!

映画を観に行く私たちの心の中に、少しはそんな夢想があるのだろうか。

おそらく誰もが、画面の中で「言い合い、歌って踊る」そんな男と女に、

少しだけ、あるいはそれ以上に、驚くほど感情移入することだろう。

 

行き着く先に何があるのか? 私たちが夢想する憧れの世界のゴールとは・・・

それは本編を見て、それぞれに感じていただきたい。

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(↑  サントラ盤のビジュアル)2017年1月19日  GAGA試写室 Preview

・・・ちなみに、私の現時点(2/6)での米アカデミー作品賞予想はこれではない。

 

2017年2月24日公開・全国ロードショー(絶シネ度★★★)

 

 

「七人の侍」を見ていても・見ていなくても「マグニフィセント・セブン」はどうなのか?

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黒澤明七人の侍」「荒野の七人」を下敷きにした、

また新たな作品だ。その物語を僕は何度も、何度も見ているが、

結論から言うと劇を見ている間、ハラハラ・ドキドキ・バンバン人が殺され、

死んでいく壮絶な話だが、映画としての王道の面白さで大満足となる映画だった。

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 「七人の侍」は、自分の20・30代にわたって何度も見た。

橋本忍黒澤明小国英雄による共同脚本(といってもほとんど橋本忍作品だが)

も何度も読んだ、スペクタクル・ストーリー展開のお手本である。

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だから「マグニフィセント・セブン」もデイゼル・ワシントンが志村喬で、

誰が宮口精二か、加東大介か。三船敏郎はどれなのか、

わかって見ることになるのだが、これが全く予想がつかないくらい

飽きさせずにストーリーは展開する。

もしかすると直前に黒澤「七人」を見て挑んでも大丈夫かもしれない。

 

もちろん「七人の侍」を知らなくても、全く問題はない。

いや未見であればもっとハラハラするだろうし、

「マグニフィセント」後に改めて「七人」を見れば、

この作品構造の超越的な凄さに気づくことだろう。

エンターテインメントとは、見せる術とは、楽しみながら体験できる。

それでも結構、エネルギーを消費します。ストーリーを知っていてもね。

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今年初めて見たマスコミ試写(2017年1月10日 ソニー・ピクチャーズ試写室)。

 

トレーニング デイ』『イコライザー』のアントワーン・フークア監督と

アカデミー賞受賞俳優デンゼル・ワシントンが3度目のタッグを組んだ!

6才のボクが、大人になるまで。』のイーサン・ホーク

ジュラシック・ワールド』のクリス・プラット

REDリターンズ』のイ・ビョンホンなどの

豪華キャストで偉大なる男たちの熱き生き様を描いた男が惚れる

ド派手なアクション超大作!

 

1月27日〜公開中(絶シネ度★★★)

 

なぜ神は沈黙するのか? 私たちに問いかける根源的な問題

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極東の島国で起こったこれほどの悲劇に、

なぜ神は「沈黙」し続けたのか?

この作品のタイトルが放つ、主要テーマの一つである。

それだけこの原作の題名は秀逸だ。

 

遠藤周作の小説「沈黙」が新潮で文庫化され発売されたころ、

今から35年前、僕は書店に並んだその本のタイトルを見てこう思った。

 

隠れキリシタンのことを扱った物語だから、登場人物が、

キリシタン弾圧の日本で自分の信仰を問われ、

一切本当のことを言うことが出来ず黙ったまま、沈黙を続ける。

それがこの話の結構だろうと。

 

しかしそれはそんな単純なものではなかった。

ひたすら自分の信仰心を押し隠したまま、

無言でいるだけの「沈黙」ではない。

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 マーティン・スコセッシの「沈黙-サイレンス-」は、

とてつもない力を持った傑作である。

遠藤周作の原作を忠実に映像化。

それだけではない。その残酷極まりない江戸初期までの

キリシタン弾圧時代が描かれた本編を見通すことで、

見るものに根源的な問いを投げかけてくる。

 

それは「極東の島国で、主とされる人物をめぐって起こった

極めて残虐なる悲劇に対して、主は、神は、なぜ沈黙を続けたのか」。

そして、それはそのまま、

私たちに極めて素朴なこんな疑問さえ沸き起こさせる。

 

踏み絵を拒んだ隠れキリシタンの百姓が、

見せしめに首をはねられ殺され、無残に引きずられる。

彼の遺体を見て宣教師のロドリコの心情は、

原作ではこんな風に描かれている。

 

「一人の人が死んだというのに、外界はまるでそんなことが

 なかったかのように、先程と同じ営みを続けている。

 こんな馬鹿げたことはない。これが殉教というのか。

 なぜあなたは黙ってる。あなたは今、あの片目の百姓が

  ーあなたのためにー 死んだということを知っている筈だ

 なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ、

 蠅の音、愚劣でむごたらしいことまでまるで無関係のように、

 あなたはそっぽを向く。それが・・・耐えられない」

 

果たして本当に「神は存在するのか」?

神が存在するなら、これほどの苦難を受け続ける私たちに、

何も啓示もなく、全く押し黙ったままの静けさを、

一体どう考えればいいのか・・・

 

信仰という信念で苦行に耐えて、その先に自分たちが信ずるものの

存在は、果たしてあり得るのか? 神様はいるのか、いないのか?

 

宗教・信仰というものに対する極めて根源的な問いかけが、

映画本編を見続ける私たちの根底に突き刺さる。

欧米のキリスト教圏の人々はもちろん、むしろ異教徒や

無宗教と言っている現代の極東島国の人々に

多く経験してほしい映画体験である。

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 2017年1月11日 角川試写室 Preview

1月21日〜日本公開(絶シネ度★★★★)